【記事更新】私のブックマーク「空間統計と無線通信」


私のブックマーク

空間統計と無線通信

佐藤 光哉(電気通信大学)

1.はじめに

 空間統計は,その名のとおりデータの空間軸での統計的な振舞いを取り扱う学問である.確率過程や回帰分析といった理論をベースに成り立つ応用的な領域であり,環境情報の可視化や,何らかの指標(例えば資源の採掘量)が最大値を示す地点の探索といった活用ができる.近年,ひっ迫する無線周波数資源の高効率利用を目的に,無線通信システムの通信品質可視化への応用が期待されている.特に,第6世代移動通信(6G)における要素技術の一つとしての研究が活発化しており,国際ワークショップも複数開催されている.
 本記事では,筆者らが取り組んできた空間統計の無線通信応用に関する研究(例えば,Sato, K., et al.: Space-frequency-interpolated radio map, IEEE Transactions on Vehicular Technology,pp. 714-725(2021))を通しての知見を踏まえ,以下3点を中心に紹介する.

  1. 無線環境可視化の概要
  2. 空間統計の応用検討に際して役立ったツールや書籍
  3. 関連する Pythonライブラリ

 特に,空間統計に基づくデータの可視化(すなわち,観測データからの未観測データの空間的な推定問題)を中心に記す.無線通信応用に主眼を置いた内容にはなるが,他分野への応用検討に興味をもつ読者でも入門のイメージがつかめるよう心掛ける.

2.無線環境可視化への空間統計応用の概要

 電波を媒体とする無線通信においては,異種システム間の干渉を回避するため 1システム 1帯域の排他的な周波数割当てが原則となる.一方で,総務省が公開する我が国の電波の使用状況からもわかるように,無線の多種多様化に伴い使いやすい帯域の大半は何らかのシステムに割当て済みである.今後の需要拡大をサポートするためには,既存システムの通信パラメータ最適化や,割当て済み帯域の空き領域の二次的利用といった方策による周波数利用効率の抜本的改善が必須となる.しかし,電波は建物の遮へいや回折,反射の影響を受けることからその通信品質は不規則であり,最適化しようにもそもそもの環境情報が不明瞭であるという問題が生じる.空間統計は,こういった問題の解決に向けて応用検討がなされてきた.
 通信品質の可視化に関して,身近なところでは移動体通信事業者(Mobile Network Operator:MNO)がサービスエリアをそれぞれ公開している.

 これらは,端末が通信可能かどうかを場所ごとに表現したマップである.誰でも手軽に利用でき,コンシューマ目線では全く問題ないが,可視化内容が極端に単純化されていることから,応用先が限られる.受信電力のような下位層に踏み込んだ情報を可視化し,マップとして保持することで,端末ごとの使用周波数や送信電力,符号化率といった通信パラメータの最適化の事前情報として活用できる.
 こういったマップは,経験則に基づく電波伝搬モデルやレイトレーシングシミュレーションにより生成可能である.しかし,前者は精度の問題が,後者は演算量や建物情報の取得方法の問題が生じる.これらを解決した可視化法として,空間統計に基づく手法が登場する.具体的に,スマートフォンなどの移動端末が観測した通信品質を,端末位置とひも付けて遠隔のサーバへアップロードする.サーバは,それらの分散や相関距離といった性質を解析するとともに,未観測領域の内挿を施すことで可視化を実施する.受信電力は,その対数値が屋外環境において指数減衰型の空間相関を示す多変量ガウス分布でモデル化できることがGudmundsonによって経験的に明らかにされている.このような性質に着目することで,空間内挿の一種であるクリギングを用いて理論最適な精度での受信電力推定が実現可能であり,無線環境の可視化への応用が注目される契機となった.近年は,深層学習の発展に伴い時間変動にも着目した高精度推定やイメージセンサの応用,内挿の周波数軸拡張などさらなる発展検討が進められている状況である.
 空間統計の無線環境可視化への応用可能性に関しては,以下のような文献で検証がなされてきた.

 以上は周波数共用を対象とした2000~10年代頃の検討である.ここ数年の,6Gのような次世代システムでの活用を目指した話題については,以下の論文がわかりやすい.

3.空間統計を学ぶ

 筆者は以下2冊で入門した.いずれも理論面が丁寧にサポートされており,応用研究へ取り組むにあたっての十分な下地を形成できる.

 手を動かしながら身につけたい読者を対象に,計算機への実装例を記した書籍も複数ある.

 なお,空間統計において広く用いられる内挿手法の一つであるクリギングはいくつかの条件のもと,ノンパラメトリック回帰手法の一種であるガウス過程回帰(Gaussian Process Regression:GPR)と同等である.読者の興味の対象が空間内挿であり,すでに機械学習や回帰分析に一定量の知見がある場合は,まずは(空間軸に限らない)GPRを対象とした書籍から学ぶことでスムーズに導入できると思われる.例えば以下のような書籍がよい.

 いずれの入門方法においても,観測対象が多変量ガウス分布に従うことを前提とする場合が非常に多い.幸い,(多変量にせよ単変量にせよ)ガウス分布は数学的な知見が多いことが利点の一つである.ガウス分布を対象とした専門書を 1冊手元に置いておくと,何かと役に立つ.悩んだらまずは以下のような書籍を手に取り,見当たらない場合は論文を探す,という流れを踏むとよい.

4.空間統計を使う

 学んだ理論をとりあえず試すということであれば,場所ごとの観測値が多変量ガウス分布に従う乱数を生成し,これらをデータセットとして取り扱うことが手軽である.例えば,Python用数値計算ライブラリであるNumPyの多変量正規乱数生成関数や,MATLABにおける同様の関数がある.また,筆者は無線環境を対象としたクリギングに関するデモを一つの“.py”ファイルへとまとめ,GitHubで公開している.実装方法のイメージはここからつかむこともできる.
 実データを対象にする場合は,その観測値にひも付いた位置情報を使用することになる.一般的に,このような位置情報はGPSなどで取得された緯度・経度であるが,空間統計における分析は多くの場合,平面直角座標系を前提としており,座標系の変換を施す必要が生じる.この手の情報の主要な変換について,国土地理院が測量計算サイトを公開している.具体的に,平面直角座標への換算緯度・経度と地心直交座標の相互換算のページへ手持ちの位置情報を入力することで,座標の変換ができる.共分散行列の生成など,観測地点間の距離のみがほしい場合も多い.このような場合も同様に,距離と方位角の計算のページが公開されている.
 取得した緯度・経度情報を管理する場合,標準地域メッシュに基づいてメッシュコードを付与すると自前のデータベース上の取扱いが容易であり,かつ外部データなどとの整合も取りやすい.メッシュコードの区分方法は,総務省統計局 地域メッシュ統計についてのようなページから確認できる.緯度・経度から機械的に算出でき,Pythonなどでの自作も容易ではあるが,変換ツールを公開しているところも複数ある(例えばジオセンス社のGeocode Viewer).加えて,総務省統計局が全国の市区町村別メッシュ・コード一覧をCSV形式で公開している.ここから約1km四方ごとのメッシュコード(3次地域メッシュコード)を確認できる.

5.関連するPythonライブラリ

 筆者は関連するプログラムをPythonにより実装している.筆者の研究の中で役に立ったPython用ライブラリを中心に紹介する.
 NumPySciPyscikit-learnといった定番の数値計算用ライブラリはもちろん,空間統計応用に対しより直接的に活用できるライブラリも存在する.PyKrigeは,その名のとおりクリギングによる空間内挿手法を収録したライブラリである.常クリギング(Ordinary Kriging:OK)や普遍クリギング(Universal Kriging: UK)を中心にさまざまな手法が利用可能である.また,緯度・経度情報をもった実データの取扱いに関してはPyGISがある.
 機械学習の文脈で,GPRに関連するライブラリも充実している.筆者が現在最も活用しているライブラリは,GPyTorchである.これは,機械学習ライブラリ PyTorchのガウス過程拡張である.PyTorchの文法で関連手法を実装でき,PyTorchで実装された機械学習プログラムとの連携も容易である.ドキュメントが大変充実しており,厳密なGPRの実装例はもちろんのこと,深層カーネル学習(Deep Kernel Learning:DKL)による高精度化マルチタスクGPRといった発展的な方式も例文つきで公開されている.
 プログラムの高速化も重要である.Joblibを用いることで,簡単に並列処理を実装できる.無線通信においてはモンテカルロシミュレーションが多用されるため,筆者はその高速化のためよく使用する.重い処理がある場合はJust-in-Time(JIT)コンパイラであるNumbaを使用している.重い処理を短い関数へと分割し,そこだけコンパイルすることで高速化できる.手軽なうえ,並列化やGPU連携も可能である.

6.実装手法のチューニング

 観測データからの推定を行う手法全般にいえることだが,アルゴリズム内に何かとハイパーパラメータが登場する.クリギングや GPRもこの例に漏れず,具体的にはデータ間の空間的な共分散構造のモデリングにおける学習率や観測センサの配置方法といった要素がある.これらを調整せずに動作させては,なかなか内挿精度が得られない.
 こういったパラメータの調整には,ブラックボックス最適化の一種であるベイズ最適化(Bayesian Optimization:BO)を用いた適応的実験計画法が有効である.BOは,製造や機械学習をはじめ,近年多くの分野で注目を集める手法である.
 以下のような和書に加え,OptunaBoTorchといったPythonライブラリもあり,入門環境が一定量整っている.

 なお,最も基本的なBOの実現手法はGPRに基づいた目的関数の逐次的なモデリングと最適点の探索である.クリギングやGPRによる空間内挿を身につけた後であれば,BOへの入門は比較的容易である.

7.無線環境可視化に関するワークショップやデータ整備の動向

 本分野は,空間統計における深層学習の発達も相まって次世代無線通信システムにおける要素技術として近年注目を集めており,著名な国際会議での関連ワークショップの開催数も増加している.以下に,いくつかの例を紹介する.

 一つ目に記したワークショップは,オープンデータを題材としたコンペである.複数の著者らが自前の推定手法を持ち込み,その精度を競った.本領域におけるコンペは他分野と比較すればまだまだ黎明期にあるものの,今後のさらなる発展が期待される.また,いずれのワークショップも 2023~24年の開催である.最新の研究動向を探るうえでは,これらの発表プログラムが手掛かりとなると考えられる.
 他分野に遅れを取る形ではあるものの,本分野においてもデータセット公開の取組みが進められつつある.無線環境可視化については,上記コンペでの題材となったRadioMapSeer Datasetが近年よく用いられる.また,可視化した無線環境情報は端末の位置トラッキングにも応用できる.そういった検討の文脈で,IEEE DataPort WiFi indoorlocalizationカテゴリーでも同様のデータセットがいくつか公開されている.加えて,電子情報通信学会 アンテナ・伝播研究専門委員会がさまざまな条件での実測値やレイトレーシングによるシミュレーション値をデータベース化している.

8.建物データを活用した高度化に向けて

 ここまで,観測データとその観測座標のみを活用した空間統計的手法の入門に関する話題を述べた.電波は障害物による反射や回折,透過の影響を受けて複雑に変化する物理現象であり,通信環境近辺における建物情報を活用することでさらなる推定精度向上が期待できる.素朴にはレイトレーシングシミュレータ(例えば,Wireless InSite)により高精度な通信品質推定ができるが,その演算量の多さに加え,そもそもの建物情報の取得が困難であるという背景があった.
 近年,都市のディジタルツイン化を目的に,各国でオープン3D都市モデルの整備が進められている.日本でも国土交通省主導でProject PLATEAUが立ち上がっており,同プロジェクトポータルサイト内で,すでに多くの建物や地形情報のベクタデータが公開されている.こういったデータを活用することで,無線環境可視化のさらなる高度化が期待できる.
 本オープン3D都市モデルにおけるデータ形式は,CityGMLが基本である.建物ごとに詳細な属性をもたせることが可能であり,三次元空間をリッチに表現できる.分野外の研究者が一見した際に扱いづらい印象を受けるが,実際には以下2点の特徴から思いのほか扱いやすい.

  • 三角形のテクスチャの座標のみを記録した“.obj”形式でのデータ提供もある.シミュレータ内では三角形の反射面の集合として取扱いができる.
  • 公開データは前述のメッシュコードにひも付いている.これにより,実データ取得エリア近辺の建物情報も機械的にサンプリングできる.

 少量のデータであれば,専用のビューアを使わずにBlenderで閲覧できるうえ,必要に応じた編集もできる.本プロジェクトは公式リポジトリが非常に充実している点や公式X(旧 Twitter)の更新が活発である点も特徴である.これらを一読すれば,異分野応用の手掛かりがつかめる可能性は高いであろう.
 なお,ビル影や屋内など,オープン 3D都市モデルへの収録が難しい情報も多い.こういった情報に対しては,イメージセンサやレーザスキャナの活用による自前でのモデリングが有効である.自前でモデリングした通信環境情報を用いたレイトレーシングシミュレーションの実験結果に関する報告も増えつつあり,筆者らも同様の取組みを行っている.以下は関連論文の例である.

 今後は,空間統計の無線通信応用における建物情報や地形情報の活用が期待される.

9.おわりに

 空間統計について,無線通信応用に主眼を置いた紹介を行った.空間統計はいくつかの基本的な数学の上に成り立つ応用領域であるが,実データの活用に際しては,座標の取扱いを中心に戸惑う箇所も多い.本記事が読者の研究の一助になれば幸いである.

謝 辞

 貴重な執筆の機会を与えてくださった本学会誌編集委員会に心より感謝申し上げます.