滝浦 真人 (共立女子短期大学)
ヤーコブソンは、狭義の詩にとどまらず、ことば遊びや標語、 キャッチ・コピーなどをも含む広義の「詩的言語」全般が同一の原理によって生成されていると考え、 その原理を「詩的機能」と名付けた。「詩的機能」とは、 語の音的/意味的類似性を実際の言葉の流れの上にコピーしてゆくような、 一種の写像的働きのことである。ヤーコブソンは、この概念を用いて、 詩的言語に特徴的な「押韻」や「リズム」の科学的解明を構想し、多くの例証を行なった。
実は、この「詩的機能」は、ヤーコブソン自身の意図を超え出る射程をもっている。 言葉の機械的な“生成装置”として位置づけ直してみると、 この機能が単独かつ最も純粋な形で発揮されたときに生成する言葉は、 ヤーコブソンの言う「詩的言語」ではなくて、一種の「病的言語」、 例えば、ある種の失語症患者の常同的な発話や「舌語り(グロソラリア)」と呼ばれる神がかり的発話だと言わなくてはならないのである。
言葉の質として見た場合、「詩的言語」と「病的言語」は、 一つの点を除けばかなり強い近縁性をもっている。例えば、 谷川俊太郎の有名な一連の「ことばあそびうた」は、音と意味の自由な連想を最大限に働かせたいわば「自働書記法」的手法によって作られており、 少なくともその分だけ、情報の伝達性は背景に退いていることになる。 言うまでもなく、音的/意味的連想が顕在化している「病的言語」の場合にも、 情報の伝達性は重症度に応じて損なわれざるを得ない。
「詩的言語」と「病的言語」とを分ける一点は、おそらくは「文脈」のありように求められる。 「ことばあそびうた」が決して病的と受け取られることがないのは、 一見連想の赴くままに書かれたような言葉が、 “事後的に”しかし確かな「文脈」を読者に感じさせるからである。 そして、ことば遊びの領域でも、「三段なぞ」や「回文」や「アクロスティック(折句)」などに事後的な文脈の辻褄合わせを見出すことができる。
情報の伝達性を多かれ少なかれ犠牲にするという点で、ことば遊びは“伝えないコミュニケーション”であると言うことができる。 事実、「洒落」や「むだ口」のように、 文脈は撹乱されるばかりで事後的な辻褄合わせも行なわれないことば遊びも確かに存在する。 けれども、依然としてことば遊びは「病的言語」ではない。 だとすれば、ことば遊びは何を伝えるのだろうか。 ことば遊びにとって「文脈」とは何なのだろうか。 そのことを考えてみなければならない。