「文学と認知・コンピュータ」研究分科会
夏のワークショップお知らせ及びポジション発表募集

認知科学会第17回大会(6月30〜7月2日:静岡芸術大学)
(http://jcss2k.cs.inf.shizuoka.ac.jp/)
において7月2日に開催されるLCC企画夏のワークショップ

「文学における作者対読者対メディア−コミュニケーションの視点から−」

についてお知らせいたします。

LCCの活動も既に2年が経過しようとしており、そろそろ第一期の総括
と次のビジョンと計画を検討する段階に来ております。次期において文
学と認知を巡るオリジナルなコンセプトとシステムを構築することをめ
ざし、本ワークショップ及び玉川大での例会において、これまでの議論
を総合して煮詰めて行く予定です。

奮ってご参加いただきますようお願いいたします。
また、フリーディスカッションの時間帯にポジション発表者を募集しま
すので、こちらの方もお願いします。

                   夏のワークショップ運営担当 小方 孝

[プログラム]

7月2日(日) 15:20−17:50

第1部 基調発表(15:20−16:30)

 司会:藤田米春(大分大)

 一人持ち時間7分(時間厳守)×10名

 (1)森田均(長崎シーボルト大)
 (2)岩垣守彦(玉川大)
 (3)徃住彰文(東工大)
 (4)金井明人(東大)
 (5)川村洋次(大阪経済法科大)
 (6)羽尻公一郎(ソニーCSL)
 (7)良峯徳和(湘南女子短大/東工大)
 (8)小方孝(山梨大)
 (9)潟沼潤(札幌国際短大)
 (10)藤田米春(大分大)

第2部 ディスカッション(16:40−17:50)

 司会:潟沼潤(札幌国際短大)

 (1)レジメ及びメイルに基づく議論の整理(10分程度・小方)
 (2)フリーディスカッション

[発表者へのお願い及びポジション発表募集]

・第1部基調発表の時間が短いため、基調発表者には事前にメイルを通
じて可能な限り補足的な情報を公表していただくようお願いします。
・第2部の冒頭において、レジメ及びメイルでの情報&議論に基づく問
題の整理を行い、ディスカッションの手引きとする予定です。

<<<ポジション発表者求む!>>>

・発表者以外で当日意見や理論を開陳したいとお考えの方には、「ポジ
ション発表」という形で、フリーディスカッションの時間帯に3〜5分
程度の発表時間を提供しますので、可能なら事前にメイルでレジメを配
布して当日ご発表ください。当日、間の休憩時間にポジション発表希望
者を募りますので、それ以外の方も名乗りを挙げてくださって結構です
(時間の関係で人数等調整させていただく場合もあります)。メイル・紙
いずれにせよ資料配布は奨励します。

[基調発表者のレジメ]

認知科学会第17回大会ワークショップ(W2-01)(企画責任者:藤田米春)

    「文学における作者対読者対メディア
     −コミュニケーションの視点から−」

    岩垣守彦、小方孝、潟沼潤、金井明人、川村洋次、
    徃住彰文、羽尻公一郎、藤田米春、森田均、良峯徳和

1.はじめに

     既に、文学について認知科学的な様々な視点からの議論が「文学
と認知・コン
ピュータ研究分科会」やその他の研究会においてなされてきたが、その
中でコミュニケーションという視点からの議論、あるいはコミュニケー
ションという視点を持ち込むことが相応しい議論もいくつか出ている。
     文学をコミュニケーションとして捉えることが妥当かどうかにつ
いても様々な立場があり議論のあるところであり、例えば、公開を意図
しなかった日記や物語内容の伝達を目的としない映
像芸術などについては、通常の意味でのコミュニケーションにはならな
いと考えられる一方で、それらも広い意味でのコミュニケーションとし
て捉え、そのために必要なコミュニケーションの概念の再構築をしよう
との立場もある。
     また、現代では、従来の狭い意味での文学に加えて、漫画、アニ
メーション、コマーシャルなどの新しい分野への広がりや、ハイパーテ
キストやネットワーク上などの表現形態・作成形態の
多様化も進展してきており、その伝達手段や記録形態にコンピュータを
はじめとする様々なメディアが係わっている。このことの、文学のコミ
ュニケーションとしての側面への影響・機能・意味・意義についても、
多くの観点から考察する必要が生じている。
     本ワークショップではこれらの状況に鑑み、文学とコミュニケー
ションとの関係、それも人間と人間の間のみならず、コンピュータある
いはメディアが介在あるいは参加した形での関係を多面的に分析・考察
する。このため、文学、心理学、社会学、情報科学その他の多彩な分野
からの参加者を募り、文学のコミュニケーションとしての側面を多様な
立場から浮き彫りにすると共に、どのような視点がありうるかも明らか
にしたい。

2.それぞれの視点

2.1 文学において伝わるということ(岩垣守彦)

 「伝えたい」という意思のない「作品」は存在しない.したがって,「作
品」があるということは「何かを伝えたい」と願ったからである.しか
し,それを読む人がいなければ,それは「作品」として存在し得ない.
したがって,「言葉で何かを伝えたいと願った人」が書いて,「言葉で何
を伝えたいと願っているのか知りたい人」が読んではじめて「作品」は
成立する.
 そのような「作品」が「文学」になるためには,読む人が「文学」と
認めなければならない.「言葉」は集団共有の伝達用具である.ある言葉
が発せられると,集団の構成員には同じイメージが伝わることを前提に
使われるものである.しかし,この使い方では「文学」にならない.あ
る言葉の組み合わせの列を読んだ人が「文学」と認めるには,自分では
気がつかない事象・感情・認識が,共感・感動の基盤から「言葉」によ
って引き出され,命名され,普遍化されなければならない.「言葉の組み
合わせ」が共感・感動を通して,読む人にとって新しい経験になること,
これが「文学における伝わるということ」ではないか.

2.2 多重物語構造のモデルと交響的ナラトロジー試論(小方孝)

 物語を、多重化されたコミュニケーションの相と対応して、異なる諸
レベルの産出-消費プロセスにおける複数のタイプのエージェントの相、
更に多様な物語ジャンルを包含する物語ジャンル体系の相、これらの諸
相が輻輳して成立するものとして捉え、これを多重物語構造のモデルと
して提示する。
 更に、このような多重物語性に支えられて、コミュニケーションエー
ジェントレベルでの交響性、登場人物エージェントレベルでの交響性、
物語ジャンル間での交響性といった様々なレベルでの交響性の観点から
ナラトロジーを再構成しようという、交響的ナラトロジーの概念を提案
する。
 ここでは更に、物語、より広くは文学におけるコミュニケーションの
特色を、多様なエージェントが交響し、また多様な他のテキストジャン
ルとの関係的交響性を通じて創発して来る「意味の確定−否定」の連鎖
的運動として把握する観点を示す。

2.3 メディアが創る文学コミュニケーション(潟沼潤)

 文学をコミュニケーションとするときに、それは決して作者対読者の
「直接的」なコミュニケーションとしては成立しえない。ごく一般的に
は、本というメディアが作者と読者のコミュニケーションの仲立ちをし
ている。しかし、メディアそのものが、人々の認識を変え、世界との関
わり方を変化させる力をもつという意味で、マクルーハンがいうように
メッセージであるとしたら、本というメディアが存在するからこそ読者
と作者の関係が成立しているのだともいえる。たとえば、前田愛は『近
代読者の成立』の中で、江戸から明治にかけて起こる書物というメディ
アの形態の変化が、同時に音読から黙読へという読者の変化を引き起こ
す様子を描いている。
 また、メディアの持つ伝達作用に着目したレジス・ドブレは、メディ
アの側にこそ権力が存在することを看破したが、この指摘は単純な作者
対読者のコミュニケーションモデルを吹き飛ばすものである。なぜなら、
ドブレの洞察を押し進めていくと、文学におけるコミュニケーションを
規定するものは読者でも作者でもなく、メディアであるということにな
るからだ。そしてメディアによって作られた芸術受容空間の中で、読者
と作者は出会い文学が生み出されていく。

2.4 映像作品とコミュニケーション(金井明人)

 映像作品の、最も典型的な目的の一つとして、物語内容の伝達があげ
られる。しかし、映像作品はなぜ、物語内容を伝達できるのであろうか?
 映像作品を作者が制御するのは多大な努力が必要である。どのような
映像作品も、何らかの道具を経由して制作されるのであり、作者は使用
するさまざまな道具を操る技術が要求される。
 また、完成した映像作品を視聴者がどう認知するかを作者が完全に把
握することも難しい。映像には明示的な文法は存在しないため、常に新
たな解釈方法が誕生する余地があるためである。
 もちろん、作者は何かを意図して映像を制作するのであろう。しかし、
実際の映像作品は、作者の意図以外の見方が可能なのである。映像制作
に用いた道具が、作者の意図以外の要素を付加させてしまうだろうし、
視聴者が意図とは異なる認知をするかもしれない。
 映像作品による作者と読者のコミュニケーションでは、物語内容が伝
達される時もあるだろうし、されない時もあるだろう。確実なのは、作
者が映像メディアの複数の特性を修辞により顕在化させる行為と、視聴
者が修辞の認知を通して映像メディアの複数の特性に触れる行為だけで
ある。

2.5 芸能作品とコミュニケーション(川村洋次)

 芸能作品は時間的制約を持っている。それは作品と受け手が共有する
時間の長さである。したがって、受け手に何らかの効果を引き起こさせ
るため、あらゆる方策を講じる。
 方策の一つとしては、芸能領域が持っている様式を活用する。その芸
能領域の先人が蓄積した型を表現することにより、限られた時間内で無
限の情報(これらの情報は物語として組織化されている)を送り手は提
供する。また、方策の一つとしては、受け手が抱いているイメージを活
用する。受け手が日常的に蓄積したイメージに何らかの作用を起こさせ
ることにより、限られた時間内で無限の情報(これらの情報は受け手の
ヒストリーと係わっている)を受け手に引き出させる。
 これらの送り手側の無限の情報と受け手側の無限の情報とがコミュニ
ケーション空間に充満し、その情報間に相互作用(相関、背反、因果等)
が生まれ、情報同士が結合・ネットワーク化して、受け手が新しい物語
(情報の組織化)を見いだしたときに、何らかの効果を感じる。

 芸能作品におけるメディアは、限られた時間内に無限の情報を込める
ための手段である。このような観点から芸能表現について言及する。も
しかしたら、文学や映像などで言及される修辞とかなり近いものかもし
れない。

2.6 認知美学論とコミュニケーション(徃住彰文)

 文学作品とは,言語という素材で形作られた芸術作品である.こうし
た作品観から出発するのが,認知美学論のひとつの立場である.作者は
言語という素材を複雑精妙に組み立ててオブジェクトを完成させ,その
オブジェクトが読者の思考,感情,信念を複雑精妙に揺さぶる.出会う
ことのない,ひとりの作者と複数の読者はしかしながら,多くの心的構
成物を共有しているだろう.時折出会うかもしれない,複数の読者同士
もまた,多くの心的構成物を共有しているだろう.同時に,全く異なる
心の風景を抱え込んでもいるだろう.
 認知美学論は,作品の物語構成,修辞表現といった素材の側の層から,
作者および読者の側における思考,感情の層にいたる各層で,審美的体
験の心的構成物を記述しようという試みである.ここではコミュニケー
ションという概念が,情報の伝達でもなく,対人行為でもなく,心の活
動の共有/非共有という概念に置き換えられるのである.

2.7 対立と内包(羽尻公一郎)

 独我論は論破不能、反証不可能である。ウィトゲンシュタインはその
独我論に真っ向から勝負し、言語についての2つの尖塔を打ち立てた。
ひとつは論理によって完璧に構成された氷原としての世界像、もうひと
つは言語ゲーム論である。
 メディアという概念について最もポピュラーかつ鋭い分析を行ったの
は、マーシャル・マクルーハンだろう。彼の言う、「メディアはメッセー
ジである」という先鋭的なキャッチフレーズは、インターネット時代に
おいて再解釈され、珍重の度合いを増している。
 そして作者と読者について考えるならば、作家論や読者像を語るより、
バロウズやバスキアやジョイスについて考え、エーコの「開かれた作品」
理論を考える方が有益である。
 どういうことなのか?つまり、我々がスペンサー・ブラウンの言うよ
うに区別を原基とした世界の分節化と認識をしているとしても、上記の
人々の説はそれを否定し、1元論へと還元してしまうのである。
 対立を作り出しても、それを内包してしまうのが、認知にとっての文
学なのだ。

2.8 不完全コミュニケーションとしての文学(藤田米春)

 コミュニケーションとしての文学(あるいはより広く「芸術」)は、作
者の意図する思考や感情を受け手の脳の中に出現させようとするもので
ある。作者の立場からすると、作者が期待した反応を受け手が示せばこ
のコミュニケーションは成功したと見る。コミュニケーションの不成功
はさまざまな原因で生じる。たとえば、本であれば印刷機の不調による
読み取り困難な文字や落丁などあるいは印刷が正常でも読み手が知らな
い漢字や用語を使用している、さらに、知っている用語、たとえば同じ
「犬」でも作者の「犬」と読者の「犬」の違い、そして、記述されてい
る事象が読者の脳に出現したとしても、その解釈は作者が期待するもの
ではない可能性も大きい。この意味では、「文学」というものは通常の意
味での「コミュニケーション」が成立しないことを前提にして作られて
いる。
 それでは、文学に対してどのようなコミュニケーションのモデルを考
えれば、よいか。このことは、実は、文学のコンピュータ処理等を考え
る場合のみならず人と人あるいは人とロボットのコミュニケーションを
考える上でも重要である。

2.9 「作者対」は可能なのか(森田均)

 文学研究が作家・作品・読者という一種のコミュニケーション・モデ
ルによって研究されていた時代もあった。あくまでも読者は享受する側
であり、一方向の流れではコミュニケーションとは言えないが。作者は
確固たる地位を占め、全集や定本によって作品を固定するために多くの
労力が費やされた。作家というリソースを独占して、複製物を排他的に
頒布する権利を築き上げることによって、産業としての文学は成立して
いる。ここでは、テクストという概念を提唱することで、作者を玉座か
ら引き摺り下ろした批評家でさえ、制度内批判者にすぎなかった。一方
で、テクストを相互作用の場と位置付ける受容理論は、言わばテクスト
を頂点とする読者側からのモデルである。固定化を必要とするメディア
に依存する段階では、これは精神史の叙述で足踏みせざるを得なかった。
現在、送り手と受け手の関係を変容させるものとして、また「読む」と
「書く」が交錯する場として電子メディアが注目されているが、ハイパ
ーテキスト化は、読書行為の一部にすぎない。ひるがえって「開かれた
作品」でも、開いているのはあくまでも作者である。メディアを駆使し
た読者参加型小説も、最終決定権は作者が握っている。作者と読者の直
接対決は、実現したことなど無いのではないか。ワープロによる文体の
変化を嘆く意見がリバイバルとなり、作者の死を宣言した批評家の伝記
が刊行され、作品の成立史に回帰する時代である。「墨を摺れ」と漢字変
換ミスで遊ぶ立場では、どちらがブンガクなのか。生産者側に立った新
たな理論は、まだ確立されていない。

2.10 作品を媒介とした信念創出ゲームとしての虚構文学(良峯徳
和)

 文学の営みを「信念創出ゲーム」(Games of Make-Believe)と見た場合,
文学作品の作者とその読み手の関係は,作品を媒体として営まれるゲー
ムの作り手と使い手の関係にあるとみることができる.虚構作品を媒介
としたゲームでは,子供の遊びやスポーツなどのゲームのように,読み
手が作品の世界に積極的に参加して,ゲームそのものに熱中し,楽しむ
ことが主たる目的となる.したがって,一般的な読み手にとっては,作
品に込められた著者のメッセージや意図を読みとったり,作者と一種の
コミュニケーションをはかるといったことがらは,作品理解というゲー
ムをより効率的,効果的に実践するための副次的な目標ないしは産物と
して位置づけられることはあっても,それ自体が目的になることはほと
んどないといえる.虚構作品理解という「信念創出ゲーム」がいかなる
ルールのもとで営まれているか,読み手はそのゲームを享受するために,
どのような戦略をとっているかは,明示化されていない.同様に,書き
手がゲームとして十分に楽しめる作品を生み出すのにどんなルールに従
い,どんな戦略をとっているかも明示的でない.「信念創出ゲーム」の視
点に立つ認知文学論は,文学作品創作ないしは文学作理解という現場で
実際に何が行われているかを観察・記述し,モデル化することで,文学
が成立する認知的な基盤を明確化することをその目的とする.こうした
企てのなかで,書き手と読み手の間にどんな形のコミュニケーションが
成立し,それが作品理解というゲーム本来の目的にとってどのような役
割を果たしているのか,コミュニケーションが成立するための共通ルー
ルとはいったい何であるかが,明らかになってくるものと考える.